話す準備を

話す準備をします

五反田 美味い飯屋

【飯屋】
とん金
一番美味い。駅から遠い。


きみはん
ラーメン屋。昔ながらの中華そばの究極系。魚介ベース。無限に食える。西口出て目視できるレベルの立地。


おにやんま
うどん屋。立ち食い。安くて美味い。毎日食える。朝7時から深夜までやってる。場所はつけはんの隣。


みさか 
そば・うどん屋。多種多様なうどん+ご飯でだいたい800円。店に高級感漂ってるのでお得感がスゴい。カレー南蛮うどん、味噌煮込みうどん、カツ丼が美味い。大崎広小路方面に四、五分歩く。


すごい煮干ラーメン凪
ラーメン屋。ゴールデン街発祥らしい。煮干がすごい。みさかの隣。


Hot Spoon
カレー屋。オシャレ美味いのに日常的に食える不思議さ。東口出て橋とか渡る。駅から多分5分くらい。


銀座 いし井
つけ麺・ラーメン屋。魚介豚骨。安定の美味さ。カレーつけ麺が気になっている。駅から大崎広小路の方に歩いて6分くらい。


カレー屋うどん
カレー屋。カレーうどんはメニューにない。スープカレーがばり美味い。普通のトロッとしたカレーも美味い。美味い。駅からは遠い。大崎広小路駅から歩いて十分弱。


Hi, how are you ?
一番美味い。五反田駅から中原街道綱島街道の方に歩いて4時間ほど
 

睡眠至上主義

僕は、睡眠に絶大なる信頼を寄せている。

風邪、筋肉痛、にきび、口内炎、嫉妬、焦り、絶望。自分に起こる大小様々な問題は、大概睡眠によって解決されると思っている。

 

睡眠至上主義だ。


実際、今まで数々の難局を、睡眠をすることによって「まあとりあえず頑張るか」という限りなく居直りに近い開き直りを発動し、ぼんやりと乗り越えてきた。


それゆえ、夜寝れない日はイヤだ。
もちろん、睡眠不足のせいで集中力が下がったり、身体に不調を来すのも苦痛ではあるのだが、それよりも、毎日一回は発動できる切り札を使えなかったことへの腹立たしさというかなんというか、機会損失的な意味でイヤな気持ちになるのだ。


特に、寝ようと思っても寝れない日は最悪である。そもそも、何かしらの寝たい事情・問題があるから寝ようと思ってるのに、それをさせてくれない。

 

部屋を真っ暗にして体を脱力させる。自分の身体に意識を向け、微細な感覚を心の中で言葉にして行く。今、この時に、集中する。そうすると、どんどんどんどん眠気がくる。らしいが、全然こない。全くこない。

 

眠りによって解決したい問題があればあるほど、眠らせてくれない。上手くできている。というよりも、下手にできている。話が逸れている。


寝たくても寝れない、そのもどかしさが更に睡眠への欲望を駆り立てるが、寝れはしない。だから、何か他のことをし始める。脳が強制的にシャットダウンするその瞬間まで、何か他のことをするのだ。

すると、夜更かしが生じる。その夜更かしがさらなる夜更かしを生む。

乱れたサイクルの睡眠は、最強の問題解決ツールから、なんとなしの罪悪感に変化し、寝起き一発目からテンションを下げてくる。


眠気よ来い
 


 

べん びん なぜ一緒

「便利」と「大便」に同じ漢字が使われていることに、違和感を感じつつも一定の納得感を得ている。


べん と びん はなぜ一緒なのか。


調べてみたが、正確な起源は分からなかった。


大漢和辞典を発行している大修館書店が提供しているサイト「漢字文化資料館」のワンコーナー「漢字Q&A」にも、なぜそうなったかはわからない、と書いてあった。

また、このサイトでは、

「するりと出る」つまり「支障なく出る」からだ、という説があるにはあるのですが、常に「するりと出る」わけでもない私としては、全面的に賛成とはまいりません。(原文ママ

と、匿名のカミングアウトと共に一つの仮説を一蹴していた。少しだけ度が過ぎていると思う。

 

多分、先人もなんとなくの納得感で「便」と「便」を一緒くたにし、それでも拭いきれない違和感を「びん」と「べん」という音の違いで消化していたのだろう。

 

・・・。


ここで僕は、郵便配達の少年を妄想する。
当然「便」は漢字であるため東アジア系の容姿を想像すべきだが、妄想の便宜上イタリアの少年とする。ど根性カエルの主人公ヒロシでもよい。


郵便配達に勤しむ少年は、悲しいかな、お腹が弱かった。配達作業中に催すことも珍しくなく、度々配達先の家でトイレを借りていた。


「お疲れさん。今日は(トイレ使わなくて)大丈夫?」
「特に(便意は)ないんですけど、五分だけ(籠らせてください)」


いつからか、配達先の家でトイレを借りることがルーティン化した。


「ウォシュレット付けたんですねー。」
「おつかれさん」


トイレを借りるために配達をすることもしばしばあった。


「結局TOTOなんすよね」

「晩御飯食べてく?」


郵便配達の仕事を辞めてからも、彼はトイレを借りるために人々の家を訪れ続けた。


彼は、郵便配達少年から、郵便配達少年になったのだ。

 

参考文献:「漢字文化資料館」http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0507/

 

 

帰省

帰省をしている。その帰り道を思い出している。

 

福井駅で降りるため、座席から立ち上がり降車口に向かおうとした時、後ろからドドっと物音がした。一人の男が荷物を抱えきれずに通路に持ち物をぶちまけたようだ。

 

男と目が合う。「出来れば荷物持つの手伝ってほしいんですが…」という無言のアピールタイムはなく「荷物持つの手伝ってください」と0秒の間を経て言われる。持つ。というより、持たざるを得ない。


「あ、これもお願いします」なんて言われて、気づいたら彼1自分3 ぐらいの割合で彼の荷物を持っていた。駅の改札近くまで荷物を運び、彼からのお礼の言葉を背中で聞くぐらい無礼なスピードでその場を去った。

 

駅から家にはタクシーで向かうことにした。家からほど近い学校の名前を告げると「分からない」と言われる。そのほかにも目ぼしい場所を挙げるが、どれも運転手の脳内地図には載っていないらしく、最終的に「とりあえず北に」という化石のような表現でなんとか目的地まで辿り着いてもらった。


料金を支払う最中「ここ(の地名)は灯明寺なん?」と聞かれ「新田塚ですね」と答える。「じゃあ坂口さん住んどるわ」と言われ「そうなんですね」と答える。坂口さんのことは知らない。


タクシーを後にし、家に向かう途中、駅の改札が自動改札になっていたことを不意に思い出した。去年までは、大晦日だろうと元旦だろうと駅員が改札に立っていたのに。


家に帰り、母親に開口一番自動改札になっていたことを報告すると「夏頃には変わってたよ」とあっけらかんと答えられ、続けざまに疎遠になっている小学生の時のクラスメイトの姉が結婚したことを聞かされる。これもほとんど知らない人だ。

 

たわいもない話を聞き流していると、年越しそばと柔めのご飯と肉じゃがが食卓に出される。炭水化物が多い。紅白とガキ使をザッピングしながら、年越しそばから食べ始める。

 

帰省している。

かこつける

今僕がいるのは、三田国際ビル地下一階ののタリーズだ。大学付近を散歩していたところ、ちょうど疲れ始めたタイミングでタリーズの看板が見えた。ちょっと仲の良い高校の友達に大学一年の六月にばったり会った時ぐらいの喜びを感じつつ僕はタリーズに入店した。僕とタリーズはほどほどに蜜月の関係なのだ。

 

ここのタリーズは、オフィスビルの中にある。そのため、客層はサラリーマンやOLが中心で、軽めの打ち合わせをしていたり、単に休憩でコーヒーを飲んできてる人が多い。

 

隣の席で、30代ほどのサラリーマン2人がワールドカップについて話している。上司と部下、というより先輩と後輩、といった方が良さげな空気感を出している2人は、ワールドカップについて話している。2人ともサッカーには詳しくないようで、スマホで調べながら今回の大会について話している。そんな2人は、ワールドカップにかこつけてすぐ昔話に花を咲かせにかかる。ロジックとしては、過去のワールドカップの戦績を振り返りつつ、過去の開催年に紐づけて自分たちが何をしていたか語る、というものだ。サッカーを特別好きでない人にとって、これは適切なワールドカップの楽しみ方の1つのような気がする。

 

かくいう僕もサッカーについて明るくない人間だ。オフサイドのルールも、高校二年生の時にサッカー部ではないサッカー好きな友達から3、4回説明を受けてやっと理解できたほどだ。
「あー。野球で言うところのインフィールドフライ的な感じで、多分最初にそれを行った人は賢いプレーとされてたけどそれをやる人が多発してスポーツとして成立しなくなった過去があったから後付け的にできた的な、そんな感じのルール?」という、頭良さそうな頭の悪い返答をしたことを覚えている。あの時の「俺は野球には詳しい」「ルールのルーツまで考える俺賢いでしょ」という言外の主張があまりにもダサすぎて昔の自分をぶん殴りたい。

 

ワールドカップにかこつけて昔話をするサラリーマンにかこつけて自分の昔話に脳内で花を咲かせていたところ、サラリーマン2人は席を立った。仕事に戻るようだ。僕も席を立つ。トイレに行った。

 

ねじれの位置

オシャレな場所にあるオシャレな美容室にオシャレじゃない自分が遅刻するというのは考えにくいことなので、時間に余裕を持って行動したところ、予約した時間の1時間半前に着いてしまった。原宿である。

 

東京付近に住み始めてから5年が経つが、原宿に来たのはこれで通算十回目ほどだ。この数が少ないのか普通なのかよくわからないが、私が特別原宿を懇意にしていないことは確かだ。そしてまた、原宿も私を懇意にしていない。

 

原宿。おおよそこの文化圏とはねじれの位置にあるところで私は生きてきた。この文化圏にどっぷり溶け込んでいる人が僕の印象を語るとしたらおそらく「真面目そうな彫り深めのひと」ぐらいの解像度で答えるのだろうと思う。それくらい、互いを結びつける概念が乏しい。共通するものといったら、ねぎしと大戸屋くらいだろうか。そして、ここまで「原宿とわたし」について考える自分は間違いなく田舎者だ。

 

そんな折、奇抜な格好をした金髪の男性に声をかけられた。どうやら、カットモデルとして髪を切らせてほしいとのことだ。そもそも髪に問題意識を抱えて今回原宿に来たのだから、彼にとっても最高のカットモデル案件な髪をした人間だったのだろう。

 

「すいません、これから美容院行くんです。」なんて普通なことをちょっと得意げに言いたくなる。美容室ではなく美容院という言葉にしたところに質素なイキリを感じる。「あーやっぱりそうなんすねー。またよろしくお願いしますー。」と言われその場で別れる。

 

「またよろしくお願いしますー。」は完全な社交辞令として、「やっぱり」が気になる。何に対してのやっぱりなのか。私の髪のもさもさ具合がやっぱりなのか、私がカットモデルを断りそうな人だと思っててのやっぱりなのか、あるいはこの人はやっぱりを「うわ〜!」ぐらいの感嘆詞として捉えているのか。

 

 

「やっぱり」という1ワードに頑張って思考を巡らすも予約まで1時間15分ある。またしても訪れた、退屈な時間だ。

たいくつ

眠れない夜が来た。

理由ははっきりしている。

昼に寝すぎたからだ。

 

就活的なものが終わり、その分昼間が全て空き時間になった。齢24。同い年の大谷翔平がケガでアメリカと日本を騒がせてる中、僕はケガなくシンプルに生きている。もちろん誰にも騒がれていない。ドラマチックさとは無縁の平凡な日々だ。ただ、大谷翔平のみならず、同級生のほとんどは社会に出て働いている。その厳然たる事実が僕に圧倒的な罪悪感を植え付ける、はずだったが、僕はしっかり睡眠を取らせていただいている。まぁそんな感じで過ごしている。

 

そんな感じで過ごしている日々のとある日、それが今日なわけだけれども、今日はいつもより昼寝が捗ってしまい、夜2時になっても目がガンガンに冴えていた。就寝の時だけつける矯正用のマウスピースをつけ、電気を真っ暗にしてゆうに1時間はたっただろうが、一向に意識が落ちる気配がない。困ったものだ。ベッドの上で思索にふけっているのも飽きてきて、僕はエッセイを読むことにした。好きな詩人が書いたもので、活字で笑わせてくれる、中々に秀逸なエッセイだ。

 

だが、何かがおかしい。

 

読みたくない。読みたくないのだ。読んでいるときは、たしかに面白いのだが、不意に罪悪感と退屈感に襲われ、読みたくなくなる。正確には、本を閉じたくなる。なんというか、生産性があることをしている、そのギリギリの譲歩で「本」という体裁を持ったものに触れているのだが、読んでいるものはエッセイで、しかも自分の好きな作家ときてる。娯楽ではないか。罪悪感。加速度的に変化していると言われる現代において、その変化について行くべく自己研鑽をしているように思わせてサボってエッセイを読む。テスト週間に小説を読んで「現代文の勉強」と捏造するような、そんなプレイ。卑怯である。

 

そんな罪悪感を背負うのがイヤになり、僕は考え方を変える。僕は娯楽の時間を過ごしている、と。いっそ開き直って娯楽としてエッセイを楽しむことにする。しかしそうした瞬間、それは退屈なものに変わる。娯楽にしては娯楽ではない。娯楽にしてはリラックスできないし、集中もできない。だけどそれはエッセイのせいではない。ましてや作家のせいでもない。僕のせいだ。僕が、なんかよくわからないけど今そういうもの読む気分じゃない、のだ。じゃあ、といって読む必然性を求めて、会社から勧められてる経営についての本も読む気が起こらない。それなら、娯楽に振り切って漫画を読もうとしたけど全然楽しめない。とりあえず、本的なものがダメみたいだ。

 

開き直ってアニメを見るけどこれも全然。自分の中でなにかのハードルを下げて、ついにゲームを開く。アップデートしているのを待っている時間で飽きる。そして、もう数十回は見たであろう、電脳コイルというアニメをつける。それだけだと持て余してしまうから、掃除を始める。…これでようやく落ち着く。退屈さをアニメで埋め、罪悪感を掃除でなくす。完璧だ。眠気が来るまでこれを続けていよう。

 

…とんでもなく不毛な夜である。そのとんでもない不毛さにやっぱり負けて、こうして文章にすることにした。