話す準備を

話す準備をします

たいくつ

眠れない夜が来た。

理由ははっきりしている。

昼に寝すぎたからだ。

 

就活的なものが終わり、その分昼間が全て空き時間になった。齢24。同い年の大谷翔平がケガでアメリカと日本を騒がせてる中、僕はケガなくシンプルに生きている。もちろん誰にも騒がれていない。ドラマチックさとは無縁の平凡な日々だ。ただ、大谷翔平のみならず、同級生のほとんどは社会に出て働いている。その厳然たる事実が僕に圧倒的な罪悪感を植え付ける、はずだったが、僕はしっかり睡眠を取らせていただいている。まぁそんな感じで過ごしている。

 

そんな感じで過ごしている日々のとある日、それが今日なわけだけれども、今日はいつもより昼寝が捗ってしまい、夜2時になっても目がガンガンに冴えていた。就寝の時だけつける矯正用のマウスピースをつけ、電気を真っ暗にしてゆうに1時間はたっただろうが、一向に意識が落ちる気配がない。困ったものだ。ベッドの上で思索にふけっているのも飽きてきて、僕はエッセイを読むことにした。好きな詩人が書いたもので、活字で笑わせてくれる、中々に秀逸なエッセイだ。

 

だが、何かがおかしい。

 

読みたくない。読みたくないのだ。読んでいるときは、たしかに面白いのだが、不意に罪悪感と退屈感に襲われ、読みたくなくなる。正確には、本を閉じたくなる。なんというか、生産性があることをしている、そのギリギリの譲歩で「本」という体裁を持ったものに触れているのだが、読んでいるものはエッセイで、しかも自分の好きな作家ときてる。娯楽ではないか。罪悪感。加速度的に変化していると言われる現代において、その変化について行くべく自己研鑽をしているように思わせてサボってエッセイを読む。テスト週間に小説を読んで「現代文の勉強」と捏造するような、そんなプレイ。卑怯である。

 

そんな罪悪感を背負うのがイヤになり、僕は考え方を変える。僕は娯楽の時間を過ごしている、と。いっそ開き直って娯楽としてエッセイを楽しむことにする。しかしそうした瞬間、それは退屈なものに変わる。娯楽にしては娯楽ではない。娯楽にしてはリラックスできないし、集中もできない。だけどそれはエッセイのせいではない。ましてや作家のせいでもない。僕のせいだ。僕が、なんかよくわからないけど今そういうもの読む気分じゃない、のだ。じゃあ、といって読む必然性を求めて、会社から勧められてる経営についての本も読む気が起こらない。それなら、娯楽に振り切って漫画を読もうとしたけど全然楽しめない。とりあえず、本的なものがダメみたいだ。

 

開き直ってアニメを見るけどこれも全然。自分の中でなにかのハードルを下げて、ついにゲームを開く。アップデートしているのを待っている時間で飽きる。そして、もう数十回は見たであろう、電脳コイルというアニメをつける。それだけだと持て余してしまうから、掃除を始める。…これでようやく落ち着く。退屈さをアニメで埋め、罪悪感を掃除でなくす。完璧だ。眠気が来るまでこれを続けていよう。

 

…とんでもなく不毛な夜である。そのとんでもない不毛さにやっぱり負けて、こうして文章にすることにした。